2021/05/23 20:23
ヤオ族の伝統刺しゅう布をご覧いただいてありがとうございます。私自身初めてヤオ族の刺しゅうを初めて見た時にその技術の高さ、配色の素晴らしさにびっくりしました。それがきっかけでこの仕事を始めることになったのですが、ヤオ族の歴史、文化を知るにつれて益々興味が湧いてきました。タイから刺しゅうをしてくれる女性たちにインタビューして彼女たちの人生のお話を送ってもらいました。美しい刺しゅう布を作る女性たちの物語。年齢も環境も違いますがとても興味深いものです。刺しゅう布を見るだけではわからないそれぞれの女性の物語を皆さまにも知って頂きたいなと思います。
長いので分けてご紹介していきます。
C・Sさん
ロムエン区パーデンラーン村
仏歴2500(1957)年4月4日生まれ、64歳。5人きょうだい。
私の家族は、戦争を逃れラオスから山を越えてタイのパヤオ県チェンカム郡ロムエン区ドイウー(ウー山)に移住しました。山の奥深くに入植し、周りを開墾しながら暮らしていました。ラオスを出発するときに家財を何も持ってくることができなかったため、最初は食べられないことも多いたいへんな毎日でした。それにタイに着いたときは、ちょうど作物の植え付けが終わった時期でもあり、すぐに農業を始めることもできなかったのです。そのため近所の人に米を分けてもらったり、日雇いに行って米をもらったり、森の中で食べ物を採ったりという厳しい生活でした。日中、両親は兄と森の中で竹の子やバナナの花を探したり、狩りをしたりしました。暗くなって、唯一の明かりはご飯を炊く火だけという生活でした。
家は、土間式で、周りを竹で囲い、屋根も同じように竹で葺きます。こういう家の造りは寒い時期や雨期に風を通さず、家の中は温かいのです。
家族で移住して1年経ち、開墾した土地で農業ができるようになりました。米やトウガラシ、芥子を栽培し、豚や鶏、それに馬を飼いました。その頃、芥子は高値で売れたのです。収入の多くはこの芥子栽培でした。当時、1バーツを手に入れるのはとてもたいへんなことでした。1バーツあると、手で持てないほどのものを買うことができました。
他の村へ行ったり、チェンカムの町に買い物に行くときは、馬を引いて行き、帰りは荷物を背負わせました。村々は遠く離れていて、森や林を越え、小川をわたり、町に行くときは1日がかりでした。
村での暮らしはいつも民族衣装を身に着けていました。お金のある人は町で服を買ったりする人もいましたが、ほとんどの人はずっと民族衣装で過ごしました。衣装を作るための刺しゅうを娘に教えるのも大切なことでした。村人は助け合い、分け合って暮らし、民族の儀式や伝統文化をとても大切に厳粛に守っていました。
続く