2021/05/25 21:24

私が刺繍を始めたのは12歳のときです。母や祖母がきれいに刺繍をする姿を見て、自分もやりたいと、母に教えてもらいました。母は、畑仕事が忙しく、ズボンの刺しゅうをするのに1年くらいかかっていました。私は刺繍が好きだったので覚えるのも早く、最初に覚えた柄はチョンヤッ(クロスステッチ)、それからチョンティウ(ラーイソーッ)、チョンチアムなどの柄も覚えました。柄は、難しいのもやさしいのもあります。

 

 最初に入植した土地での生活が苦しかったことや、戦争が沈静化したので、もっといい土地を探して移住することにしました。その土地では連れてきた家畜の餌が簡単に手に入りました。

 新しい村に移住後、15キロほど離れた村のある男性を村の人から紹介されました。約1年間、お互いを知るために行ったり来たりして、男性は両親を伴って求婚に来ました。それから結婚前の1年間は婚礼用の衣装を整える準備をするというヤオ族の習慣に従い、私は刺繍に励みました。1978年私たちは結婚し、ヤオ族のしきたりに従って夫の家で暮らすことになりました。

 

こうしてロムエン区パーデンラーン村での夫婦生活が始まったのです。やがて男の子2人と女の子3人を授かりました。子どもたちを育てる間、私は働きづくめで休む間はありませんでした。昼間は畑仕事、家に戻ってからは育児と家事に追われながらも、時間があると刺繍をしました。他の人の衣装の刺しゅうを引き受けたこともあります。ズボン1着分、2,500~3,000バーツの収入になりました。そんな暮らしでしたが、私は一度も弱音をはいたことがありませんでした。ヤオ族の男は畑仕事の重労働を担い、家長としての役割があるのですが、夫は育児を手伝ってくれることもたまにありました。女は家長の命令に従い、家の仕事はすべてやります。自分は元々無口なほうで、意見を言ったり、主張をしたりすることはほとんどありませんでした。だから夫婦ケンカもあまりしたことがなく、たまにあっても手をあげたりするような激しいケンカにはなりませんでした。

家族の問題は主に経済的なことでした。収入が不安定で、農業収入は年に5万バーツほどでした。でも農作物の価格は不安定で、天候に左右され、雨が少ない年は作物がとれません。肥料やその他を差し引くとほとんど残らないのです。こんな暮らしを夫と共に40年やってきました。子どもたちはそれぞれ独立し、家族を持っています。家に残っているのは末の息子の家族だけです。

 私は身体があまり丈夫なほうではなく、今は夫や息子夫婦、孫がいて助けてくれます。今もゴムを栽培しています。ゴム栽培の収入は年間3カ月だけです。それ以外は刺繍の仕事をしたり、孫の世話をしたりしています。娘3人は嫁いで夫の実家にいますが、子どもがいるにもかかわらずたまに仕送りしてくれるのが嬉しいです